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人間発見:為替取引を奏でる(1)日本経済新聞(夕刊);1996年(平成8年)7月22日

一流チェリストから投資の世界へ。
音楽と平行し自分の手法試す。
コンピューター駆使、相場と自信つかむ。

東京芸大チェロかを主席で卒業後、欧州の交響楽団でチェリストとして活躍。
その一方で、ひょんなことから市場取引の世界に足を踏み入れる。
今や為替取引とリスク・マネジメントが本職(タナカ・カレンシー・リスク・マネジメント社代表)に。
オランダの自宅を訪ねて、グローバル取引の“演奏”ぶりを聴いた。


オランダに渡ったのは、芸大の大学院を修了した1971年。
ロッテルダム・フィルハーモニー・オーケストラに入りました。
その後、ドイツ(当時は西独)にも行きましたが、78年からはオランダ放送協会チェンバー・オーケストラでチェロの第一ソロを務めていました。
79年に金取引ブームが起きました。 1オンス250ドルから一年で800ドルほどに上昇しました。
これはおもしろそうだと、家族に内緒で銀行から百万円ほど金のコインを買いました。
ところが、相場はすでに天井だったんです。ニカ月後には500ドルに下がってしまった。

巻き返しのため徹底して研究しました。 しかしいくら研究しても相場は下がる一方で、買い投資そのものが間違っていたことに気付きました。
ショックでしたね。 これまで何でも努力で成功してきたはずの自分がやられてしまったことに。
 
そこから先、こんなアホらしいことはやめようという人と、市場に魅(ひ)かれていく人とに分かれる。
大抵の人はやめるほうを選ぶんですが、やめなかったのだから自分の責任ですね。
何とかして市場を負かしてやろうという気になっていた。
 
金の取引は経済現象を広く反映しており、ドル相場も関連します。ドルの価値が下がると金の価値が上がる。それで為替にも興味がわきました。
80年にオランダの外為管理自由化で、自由に外貨勘定を持てるようになった。
 
通貨取引で少しもうけた後、シカゴ通貨先物取引に参加しました。
小さな資金で大きく回す先物取引。でも一万ドルが2?3週間で半分になった。

また失敗です。 ただ、早くから先物を手掛け、いきなり一番難しい投資の世界をのぞいたことになります。 失敗して、これは趣味ではできないとわかりました。
とにかく一度は勝ってみたい。音楽を続けながらも81年から85年くらいまでは、いいアイデアが浮かぶと一年ほど先物でやり、ダメならまた一年ほど休む状態を続けました。
 
まず考えたのは自分が勝つにはコンピューターが必要だということです。
85年に思い切って買いました。 コンピューターはあいまいなことが効かない。
これが良かったと思います。
 
市場で失敗する理由で、一番大きいのはだれもが「何となく」勝てると思う点です。 あいまいに、甘くみる。 私は勝つ手順と演算方式を具体的にプログラミングして確かめるように努めました。
92年にはオプションを勉強し、通貨オプションを取引しました。 そこにいろんなヒントがありました。
 
ある日のこと。
相場を多層時間枠で解析して数値処理する方法を発見しプログラミングしたところ、見事に相場の転換点を表示するシグナルを出した。
その瞬間、昼間なのに部屋は真っ暗となり、だれかが座って自分を見ているような感じを受けました。 錯覚だったかもしれませんが、自信がつきました。

(聞き手は編集委員藤井良広)
 
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人間発見:為替取引を奏でる(2)日本経済新聞(夕刊);1996年(平成8年)7月23日

自由な時間生かし身に付けた実力。
超円高の最中の反転予測が的中。
多数派は負けるから同じ競争はしない。





運が良かったのは、勤めていたオーケストラでは、年間の休暇が三分の一ほどとれたんです。
仕事がある時でも比較的時間は自由。 こうした合間に自宅をホーム・オフィスにしてコンピューター取引を続けました。

90年にはタナカCRM社を作りました。 当時の代表は女房でしたが。すでに、ある日系現地法人向けの為替ヘッジのアドバイスで収入があったからです。
実力を試すため、91年から米国の先物取引チャンピオンシップに参加しました。一年間、シカゴに口座を開き、何パーセントもうけるかを競うのです。
 
93年にプロ部門で三位、システム取引部門で準優勝しました。
特にドル円取引では15回連続で相場の方向を当てた。この成績を日本のある商社にみせたらすぐに取引させてくれました。
現在、私がリスクヘッジ情報を提供する日本企業は銀行2社、一般企業六、七社です。

93年にオランダ領キュラソーにヘッジ・ファンドを設けました。
ただ、設立後間もなく運用成績が落ちたので、凍結しました。
ご存じのように94年から95年にかけて、多くのファンドが失敗し、デリバティブ(金融派生商品)の崩壊が叫はれました。ファンドはいずれ再開したいと思っています。

この間、田中は91年に13年間勤めたオランダ放送協会を辞める。その後もフリー活動を続けたが、94年の日本公演を最後に停止。音楽のプロから市場のプロに完全転身した。
 
両方こなすのが夢でしたが、心場取引はそんなに甘くなかった。
戦場です。システムを改良して、95年からまた予測が当たり出しました。

同年4月の1ドル=80円を突破する円高の最中に「円高の大天井は現在か夏ごろ。
年後半にはドル高となり100円を目指す」と予測しました。これが的中しました。
私自身、80円23銭でドル買い円売りのポジションをとり、結局101円で利食いました。
 
音楽でも市場でも同じだと思いますが、私の哲学はほかの人と同じ競争はしないということです。
必ずみんながやっていないところでやる。その分、勝てるチャンスが大きいわけですから。
為替ではドル円をやるが、この場合もほかの人が見ない部分を見ようとします。

為替のプロと呼ばれる人々が必死になって計算し、ポジションを張っているところで同じことをしても勝てるわけはない。

ただ、市場というのは.不思議なところで大抵、多数派が負けるんです。 正しいことを言っている人が負けるんです。

なぜかというと、その人が「止しい結論」を出したから負けるんですね。
例えばドル上昇局面を分析し、適切な上昇理由があればさらにドル買いを進める。
 
十人いると八人までがそう結論する。
ところがドル高が永遠に続くならこの「正しさ」も問題ないが、結局はドルの買い手が多過ぎて、ドル価格はオーバーシュートする。
 
つまり、みんなが正しく行動したから行き過ぎが生じる。
私はそういう風に、みんなが正しく行動している部分を探し、逆の可能性を確かめる。
ですからこの世界では異端児か、よほど強い人でないと勝てない。

私自身、音楽の仕事を捨ててまでこの道に入ったのは、一生一度の大きなカケです。
自分自身に長期の買いポジションを張っているのです。

(聞き手は編集委員藤井良広)

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