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工学部進学を目指していた高校生は、ある日、将来に疑同を感じ、東京芸大の受検を決意した。
彼は人1倍の努力で難関を突破し、卒業して、オランダに渡りオーケストラで首席チェリストとなった。
80年代初頭、折からの金ブームに煽られて相場に手を出したが、相場はたちまち暴落、資金は半減してしまった。
その失敗の原因を追求していくうちに、持ち前の工学的発想からユニークな相場の分析法を発見。ついにはプロの為替トレーダーに転身した。

Agora誌、1995年12月号

撮影:熊瀬川紀/文:石井亨 本誌編集部
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4月にはすでに1ドル100円を予測していた

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1995年4月21日、1通のファクシミリが顧客のもとに送られてきた。 それは『テクニ ヘッジ パルタン』と題されたA4判のファクシミリによる情報サービスで、内容はドル・円の為替の長期予測である。

94年に1ドル100円の大台を割り込んだ円高の勢いは止まらず、その2日前の19日には、一時1ドル79円75銭という史上最高値を記録。 その前後には新聞も、円高の勢いは収まらず、1ドル50円から60円台もありうると報じるほどだった。

こうした予測も飛び交っている最中、このファックスには「今年の長期予測:(1)円高の大天井は現在か、この夏頃。 (2)後半は確実にドル高が発生し100円を目指す」と見出しがあり、本文は次のように記されていた。

「今年前半は80円から90円までのレンジで取引されるだろう。 
夏まではなかなか本格的なドル高円安感はでず、ドル高は90円前後を高値限界とするだろう。今年はこの夏にもう1度円高の突っ込みがあり、それがドル強気市場の第二波の終わりか、もしくは真の大底となり、絶好のドル買いの第2のチャンスとなろう。 
その安値レベルは85円か78円程度のどちらかであろう。
今年後半は市場確信を伴うドル高展開となり、今年暮れには100円近くまでドルは上昇しているだろう」

この記事が書かれた4月以降、為替相場はほぼこの予測どおりに進行した。
7月末までは80円から90円のレンジで取り引きされていた。 6月にはドルはいったん急落、夏場の7月には85円の安値レベルで取り引きされた。

そして8月には記録的な速度でドル高円安となり、 9月には100円を突破、105円近くまで上昇した。
年末を待たずに100円を超えたものの、夏以降はドル高円安の方向に転じるという予測は的中している。


高校2年で感じた将来への疑問と不安

このファクシミリの発信地はオランダのヒルパーサム、首都アムステルダムの東南約40キロに位置する。 この市の人口は約10万人、それに対して樹木が100万本という緑に恵まれた美しい街である。

ヒルパーサムの中心部から少し離れたところにある落ち着いた雰囲気のホームオフィスの一室から、ファクシミリは発信されている。 その部屋の主の名前は田中まさし。 1946年7月生まれの49歳である。
田中は今でこそ、為替の予測を基に変動リスクを低減させるヘッジのコンサルティングを主業としているが、91年の9月まではオランダ放送協会チェンバー・オーケストラで首席チェリストを務めていた歴とした音楽家だった。

山口県で生まれた田中は、学校の先生だった両親とともに幼くして徳島市に移った。
市立徳島中学で田中は、音楽部に入り初めてチェロに触れる。 ちなみに徳島中学はNHKの全国器楽合奏コンクールの中学校の部で上位入賞するなど、音楽活動に力を入れていた。

中学2年のとき、東京に転居。高校は進学校として知られた都立日比谷高校に進んだ。
 
もともと芸術に関心があったのだろう、田中は音楽部と演劇部に籍を置いていた。 
将来の目標は東京大学か東京工業大学で航空工学を学ぶことだった。

ところが高校2年のとき、突然、将来への疑問と不安が頭をもたげてきた。
「エリートコースに乗った人間の人生が見えてしまった。 自意識が強かったのでしょう、サラリーマンで一生が終わる人生を受入れられなくなったんです」
他人と違ったことをしたい、自分なりの人生を送りたいと、人は誰しも考える。
問題はそれを実行に移せるか、人と違った造を歩くことへの不安に耐えながら、自らの思いを全うする意思が強固であるかどうかであろう。


「君には芸大は無理だ」の評を振り切って

エリートコースに乗ることを拒否した田中は、活動していたクラブから、芸能人か音楽家になるしかないと思ったという。 思えばいささか短絡的な発想といえるかもしれない。
だが、当時の17歳の学生には情報も選択肢もわずかしかなかった。

クラブ活動で弾いただけで、プロのレッスンすら受けたこともないチェロではあったが、チェリストになることを決意。 急遽チェロとピアノを買ってもらい、音楽学校、それもいきなり東京芸術大学を目指すことに決めた。

芸大を受験しょうとする生徒たちは3、4歳の頃から早期教育を受けているのが普通である。 「君には芸大は無理だ。あきらめたほうがいい」。 
最初のチェロの先生にはサジを投げられてしまった。

ピアノは1度も弾いたことがなかったのでもっと大変だった。 
チェロ科に入学するには、ピアノの試験でベートーベンのソナタを弾かねばならなかったのである。

基礎訓練をやっている暇はなかったので、田中はソナタを1日1小節ずつ覚えることにし、1回7小節のレッスンに備えた。 何も教えることのない先生は、ピアノの向こう側でため息をつくばかり。

学科試験の後、難関の実技試験は始まった。 受験生は試験官から顔が見えないようにカーテンが引かれた奥で演奏する。 田中はとにかく必死の思いでピアノとチェロを弾いた。
チェロ科の受験生は15?16人、約半数が芸大の付属高校の生徒だった。 
発表の当日、掲示板には3人の名前があった。 田中と付属高校出身者2人であった。


agorasmall_1.jpg創造する面白さを見出した芸大時代

日比谷高校から芸大に進んだ者は開校以来3人目。 田中は試験官を務めた教授の1人に合格の理由を聞きにいった。
「とてつもなく下手な演奏だった。しかし、気迫はすごかったから、入れる気になった」

芸大入学後の田中は音楽漬けの毎日で、1日最高9時間、チェロを弾き続けた。加えてよき友にも恵まれた。
田んぼの中の1軒家を借り、作曲科の同級・加古隆(現作曲家・即興ピアニスト)と共同生活を始めた。

芸大生はミスをしないことを第一に、テクニカルなプロフエツショナリズムを目指す音楽の名人・職人タイプと、失敗を恐れずクリエイティブな活動を目指す芸術家タイプに分かれると田中はいう。

加古は後者のタイプの学生だった。 苦悩しながらも、つねに自己の内面の世界を表現し、新たなものをつくろうとする加古の姿に田中は啓発されていった。
「創造する面白さを発見する毎日でした。 それ以降、自分独自のものを表現する、クリエイトすることをまず考えるようになった。 このメンタリティーは今だに私の最大の財産になっています」

田中は69年に東京芸術大学チェロ科を首席で卒業する。 演奏歴が浅いために、引き続き大学院に進み71年に修了した。 その間に陽子夫人と学生結婚している。

大学院修了も間近のころ、オランダのロッテルダムフィルで働いていた芸大の同級生の薦めで、同オーケストラのオーディションを受けて合格し、海を渡った。 24歳のときだった。


ドイツで体験した究極の音楽

ロッテルダムでオーケストラの一員として演奏活動をしながら、本場ヨーロッパの音楽をさらに深く学びたいとの思いが強く、田中は新たな師を求めた。

渡欧した翌年、当時、ソリストとしても教育者としても知られていたフランス人チェリスト、ボール・トルトリエに師事するため、オーケストラに籍を置いたままドイツ (当時は西ドイツ) のエッセン高等音楽院に入学。 月に1回、このドイツ西部の都市に通った。
「先生はチェロを寝かせるようにした演奏法を編み出し、そのスタイルが世界中に広まるなど、オリジナリティに溢れ、とてつもないアイディアを持っていました」

レッスンが月1回から週1回に変更されるに伴い、田中はデュッセルドルフ近郊のレムシャイトのオーケストラにチェロの副首席として移籍。
「私は先生に真に偉大な芸術家の姿を見ました。 その演奏からは究極の音楽が現れてくるのを何度も感じました」

田中は師にことのほか可愛がられた。 シューマンのチェロ協奏曲をクラスで弾いたとき、年老いた師は涙をぼろぼろこぼしながら、田中を抱きしめた。

ドイツでの至福の4年間の修業を終え、田中は家族とともに、78年にオランダ放送協会チェンバー・オーケストラの首席チェリストとして「ドイツに較べて自由な雰囲気の」オランダに戻った。


買った途端に金相場は大暴落

人はふとしたことがきっかけで、その後の人生が変わってしまうことがある。
79年からヨーロッパでは未曾有の金投資ブームが起きた。
「たしか1オンス400ドルだった金の価格が1年で800ドルまで上がったと思うんです。 天井に近づくときには、1週間に100ドルも200ドルも上げるというものすごいピッチでした。 有名なアナリストが2000ドルまで上がるだろうと発言していたものでした」

そこで田中は金のコインを100万円ほど買うことにした。 だが、山高ければ、谷深し、上がるピッチが急であればあるほど、落ちるスピードも速い。
相場がちょうど天井を打った時期に買ってしまったため、あっという間に、金の価値は半分になってしまった。

初めのうちは誤った情報を流したメディアに憤っていたが、それが自らへの憤りに転じていった。 何とか損を取り返してやろうと、勉強するうちに相場の不思議な面白さに魅せられてしまった。

シカゴの取引所で為替の先物取引ができると聞き、さっそくオランダの商品取引の会社に口座を開設。 1万ドルを元手に取引を始めた。
ところが、1週間で元手は半減。相応の"授業料″を払った。

勉強また勉強の毎日が続いた。 「最終的にわかったことは、朝から晩まで新聞を丹念に読み、関係書を読み漁っても、相場の動きは基本的にはわからないということでした」


88年に訪れた最初のブレイクスルー

相場とはもともと答えの出ない問いのようなものである。
田中にはそれはあまり苦にならなかった。 答えがないという点は芸術にも共通している。

高校時代には工学を志した田中のこと、次第に相場をシステマティツクに分析する発想に馴染んでいった。 取り引き者の行動と相場の動きを分析的にモデル化することに専念するようになった。

相場を理解するにはまず、相場を記述する文法のようなものが必要であろうと考えた。
相場の構造が記述できない限りルールを考えることはできない。
その複雑さは人間の言語に似ている。 当初は得意の楽典を援用しょうとしたが失敗。
次に言語学や意味論を手掛かりに相場を理解しょうとした。

東京大学図書館からチョムスキーの構造言語学の論文を送ってもらい理解しようとしたこともある。
「これまで絶対に実現不可能と思われたことを成し遂げてきた。 今後も自分ならできるに違いない」田中の挑戦は続いた。

85年にパソコンを買って表計算ソフトを使いこなせるようになってからは、相場の数値分析に自分の相場スタイルを見い出すようになり、田中は急速に腕を上げていった。

88年、相場の転換点を数値モデル化する新しいアイディアが浮かび、さっそくプログラミングしたところ、見事に相場の動きをトレースしていた。
「その瞬間、昼間なのに部屋は真っ暗になり、誰かが座って自分をじっと見ているように感じました。 ただ、それが神様だったのか悪魔だったのか、未だにわからない。 恐らく自意識の影を見ただけなのでしょうが……」

田中は相場の転換点を予測することを目標にしており、こうして得られた分析法をヘッジに応用するようになってからは、この手法を「テクニ・ヘッジ・システム」と名付けている。

その理論の特徴は「多層時間枠の相場分析」で、「カオス理論」という最新の数学理論から基本的なアイディアを得た。

コンピュータを駆使し、高等数学と統計学を応用しながら、相場を多層時間枠で複眼的に解析し、そこから出てくるまったく矛盾しあった無数の結論を単一の統一場で評価しても、破綻しないように工夫が凝らされている。
単一の評価とは「売り」か「買い」かのシグナルである。


進路を決定づけた91年夏の合宿

89年に知り合いの日本企業のオランダ現地法人の社長との会食の席で、趣味で新たなシステムを開発したと告げたところ、さっそく財務部のスタッフに会ってほしいと頼まれた。
その半年後、心酔したその担当者は、田中の弟子になっていた。

こうして田中は音楽家でありながら、その会社のコンサルタントとなり、奇妙な二重生活を始めるようになったのである。
田中は自分の会社を設立し、田中カレンシー・リスク・マネジメント社と名付けた。

91年初夏、地元ヒルパーサムのホテルで大手都銀と日本企業3社、6?7人の為替担当者が集まって、田中を講師に迎え、2泊3日の合宿を行った。
話した直後に「プロになったら」と勧められ、それらの社を顧客にした田中は、自分の人生に再び転換期がきたことに確信を持ち、その年の9月、オーケストラに辞表を出し、新たな道を歩み始めた。

夫人は安定した生活を捨てることに反対はしなかったのだろうか。
「予めこちらが反対できないようにロジックを組み立ててから話すんです。 主人は何かに熱中しないとやっていけない人だから」陽子夫人はあきらめ顔。

田中は徹底した実証主義者である。実力を試すために他流試合にもチャレンジしている。
新人トレーダーがリアルマネーの運用で腕を競うアメリカの「ワールドカップ先物取り引きチャンピオンシップ」に91年から参加。

中間成績ではたびたび第1位を走ることになるが、93年にはそれぞれ50人ほどが参加するプロフェッショナル部門で第3位入賞、システム取り引き部門で準優勝のダブルトロフィーを獲得するまでになっていた。

かつては音楽家として来た日本に、今度はプロの為替アドバイザーとして戻ってきた。
93年にはロイター社の主催で180人のプロのディーラーにセミナーで講演を行い、田中の名前は日本でも知られるようになった。


94年に痛感させられた相場の難しさ

ロンドンやパリの国際会議にも参加するようになり、93年には香港で開かれた資金運用者国際会議にスピーカーとして招待される機会にも恵まれ、国際的なレベルで人脈を広げていくことになる。

香港の講演では、「自分は音楽家であるにもかかわらず、トレーダーになってしまった。
何もかも独学だったので、ファンドの運用に関してはわからないことだらけである」と述べたところ、アメリカ最大手のファンド運用会社の副社長が田中に近寄り、「わが社のノウハウを自由に使えるように手配しましょう。 
あなたがプロのトレーダーになれるよう協力させて下さい」と申し出てくれた。

田中はこの会社のスタッフたちから、リスク管理や経理の手法を教わり、基本ソフトの提供をも受けることができた。 
また複雑な法律や規制の問題に精通するのに必要な基本知識も得ることができた。 (続く、、、)

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